こんきちの雑記帳

アカペラ・ルパン・Mac そして日々の出来事…

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またタイミングの話

こんどはルパンの話です。(^_^;

今、アニマックスで新ルパンをやってます。最近地上波の番組が改編期でくだらないモノばっかりやってるのもあって、何気なく点けたりなんかして出会いました。昨日は「ルパンを殺したルパン」、今日は「フランケンシュタインルパンを襲う」でした。内容すっかり忘れてて我ながらビックリした。(笑)

以前、モンキーパンチの最新作「MUSASHI -GUN道-」がヒドイとこのブログで紹介しましたが、その時に「どこの昭和のアニメかと思いました」というようなコメントを頂いて、昭和のアニメってこんなに酷かったっけ? と思ったのですが…ルパンも結構ヒドいですね (^_^;

いや、当時から決して「よく描けてるなあ」と思って見ていたワケではなく、「なんだかなあ…(-_-")」とムッとしながら見ていた回も多かったんですけどね。久しぶりに見てみると、目を覆いたくなる様なカットもあり。勿論、今見ても良くできた回だってあるんですが、ヒドイのは結構ヒドイ。

ある作品に最初にいつ出会ったかによって、作品に抱く印象が随分変わってくる、という感想を某所で読みましたが、全くそうだと思います。もともと旧ルパンを見て惚れなかったら新ルパンは見てないかもとは思うんですが、それでも当時は毎週月曜日をとても楽しみにしていたんです。今だったら、全然どうでもいいと思うかもしれない。今はビデオがあるから、取り敢えず録っといてつまらなかったらガシガシ飛ばすかも。

新ルファンのひとが見たら気を悪くするだろうなあと思いつつ、また毒舌です。すんません。

旧ルパンは、出会ってから30年経った今見ても、アラが無いとは言わないけどやっぱりいいなあと思うのですが、もしも今初めて旧ルパンを見たら、どう思うんだろうなあ。やっぱりあの当時の様な惚れ込み方はしなかったのかな。

そういえばビデオが無かった時代は、もっと緊張感を持ってテレビを見ていたなー (笑)
category:ルパン  コメントを読む・書く (15)

Comments

もしも今初めて旧ルを観たとしても、僕はやっぱり惚れ込むと思います。『出来が良い』回に限りますけども。
で、やっぱり、旧ルも新ルもとにかく回による出来不出来が凄まじいと思うんです。回によって制作者が違うんだから当然出来に差は出る筈で。だからやっぱり最終的には各話論で話をするしかないし、制作者が誰なのか?ってのを客はもっと気にすべきだ、というのがアタシの持論でぃす。
2007/04/07 21:53【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 私の「惚れ込み」方って、アニメ作品として、という部分以外に
 ルパンというキャラに惚れちゃった部分が大きいので、
 (勿論画面の出来込みで惚れたんだと思いますが )
 ココロが純粋な頃に出会うのと、今出会うのとでは惚れ込み方が
 随分違うかもなーと思うのですよ。

 旧ルに関しては惚れた弱みで、画面の出来の悪い回にもきっと
 随分寛容になっているだろうと自分でも思います。
 新ルの場合は見るのがイヤになってくる時があるのですが、
 旧ルは画面が悪くても嫌いな回って一つもないです。

 確かに各話論で話すのが正解だと思うんですが、観客が
 「この回はよかった」「これはダメ」って判断するのはいいとして
 制作者の名前まで踏み込め、と要求されるのは、
 技術畑でない一般のファンにとっては難しいなと思います。
 でも「良い」「ダメ」と判断した作品に、制作者の共通性を
 発見したりしたときは、なんだか嬉しいですけどね (笑)
2007/04/07 23:44【 こんきち
ああー…なるほど。画面の出来云々という視線じゃなくて、という事であれば、果たしてどう感じるのかは判らないですね。それはホントに出会い方、出会うタイミングに左右されちゃいますね。ふむ。

全員が全員「制作者の名前まで踏み込まねばならない」とまでは流石に要求しないんですけど…踏み込まないって事はそこまでの客なんだろう、とは思うんです。
果たして『一般のファン』って何なんだろう?と。
何故踏み込まないんだろう?…と、そこが判らないんです。

例えば僕も、音楽には興味がありませんから、音楽制作者のあれこれなんてのは丸っきり判らないんですが、それは音楽に興味が無いからであって…だから僕は音楽に関しては自分を三流の客だとしか思ってません。だけど、三流の客だからといって、音楽を聴いちゃ駄目だってこたねェだろうと思うので、好きな曲を好きに聴きはするんですが。
だから「アニメなんて暇潰し」程度の人であれば「そりゃ制作者なんて知らなくて当たり前だ」と思うんですが、一定以上にアニメが好きだったり、特定のアニメ作品に入れ込んでたりする人が「だけど制作者はよく知らない」ってのが僕には何だかよく判らないんです。
映画の監督や出演者、音楽の歌い手や作曲家や作詞家、漫画や小説の作者に関して殆ど何も知識が無い映画好き、音楽好き、漫画好き、小説好きって普通はまぁいないと思うんです。だけどアニメに限っては、スタッフに関して無知なアニメ好きってのが普通だ、ってのがどうにも解せなくて。何でそうなっちゃうんだろう??と。

スタッフに踏み込まない楽しみ方、スタッフに踏み込まない『一般のファン』という在り方を否定するなんて事は勿論出来ないんですが、ある面ではそれは低い段階なんだ、とは言えるだろうと考えてます。否定ではなくて区別。駄目だという事ではなくて、踏み込んだら更にもっと良い客になるだろうに、と。
2007/04/08 01:31【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 音楽でも、熱心さと作り手に対する造詣の深さは必ずしも一致しない気がします。

 自分を顧みると、私は音楽は好きですけど、作曲家や作詞家に関して知識は殆どないです。
 曲の構成とかには興味があって分析しながら聴いたり
 歌い手の歌唱力や表現力について考えながら聴いたりはしますけど、
 作った人に関しては殆ど関心がないですね。好きだけど誰が作ったか知らない曲は多いです。

 歌い手に関してはどうやっても前面に出てきますから、好きなら名前くらいは覚えますが。
 そういう楽しみ方をする人だって、池本さんには理解できないとしても
 結構世の中にたくさん存在すると思うのですよ。

 目の前にある成果物に対して、きちんと評価ができればいいのであって
 作り手に関する知識がないと「低い」という感覚はイマイチしっくり来ないです。

 でもアニメではほかのジャンルよりも作り手に目が向かない、っていうのは
 確かにそんな気がしますね。本来なら役者に当たるのが
 絵を描いてる人達だろうと思うんですが(声優もですけど)、
 生の役者と違って直接目に触れないですからねえ。

 映画でも、作り手で目がいくのは監督と出演者くらいですから、
 アニメでも監督や声優あたりに興味が向くのは自然な気もします。
 作品がいいのは誰の功績なのか普通の映画よりも判りにくいですから、
 作画監督や原画なんかはなかなか興味の対象になりにくいのかも。

 音楽で例えるならば、ある合唱団は上手いけれど曲によって出来不出来にバラツキがあって
 実はそれは練習指揮者を誰がやってるかに依るんだけど、
 練習指揮者まで意識して演奏を聴いてる人は殆ど居ない、とかそれくらいのレベルなのかも。
2007/04/08 08:25【 こんきち
うう〜ん…。『造詣』とまで言っちゃうと、それはディープだって事になりますからアレなんですけど…だから「何で知らないの?」という僕の疑問は『完全な無知』に向かってるんです。例えば青木悠三なり友永和秀なりが「どんな仕事をしてきたか」とかそういった事をまで知ってなきゃおかしいだろ、というのでは無しに、青木悠三なり友永和秀なりを認知してないってのは何なんだろう?と思うんです。

僕だって映画好きとは言いながら、自分が好きな映画は全て監督なり出演者なりを咄嗟に挙げられるか?と言えば、挙げられない物も勿論あります。まして撮影だとか音響だとか、そこまで行くと挙げられる作品は皆無です。
だけど本当に好きなジャンルの、本当に好きな作品の、主要な作り手を知らないってのは、ちょっと考えられなくて。
この歌大好きだけど誰が歌ってんだか判らないとか、この本大好きだけど誰が書いたんだか知らないとかって、そりゃあ無いだろうと思うんです。作り手に全く意識が向かない事ってあるんだろうか?と。
僕が理解に苦しもうが苦しむまいが、アニメの作り手に意識が向かない人ってのはどっっっさりいますが…それが当たり前になってるのが歯痒いんです。理解したいんじゃなくて歯痒いんです。

作り手を全く意識しない、作品だけにしか目が向かない楽しみ方を全否定してるわけじゃないんですが、だけどそれはある面で「低い」し「浅い」だろう、と。で。低いから駄目だ、浅いから駄目だというのでは無しに、好きなように楽しめば勿論それでいいし、作り手なんか意識せずとも「高い」「深い」楽しみ方はある、とは思うんですが、全員が全員そうだってのは何事なんだろう?とそれが歯痒いんです。

こんきちさんが指摘してるように、アニメにおける『役者』ってのは絵描きと声優なわけですが、何故か一般的な傾向として絵描きには目が全然行っていない。それは直接表に出てないからではないか、との事ですが…『声』だけの声優と『絵』だけの絵描きとは等価な筈であって、何故『声』が表になって『絵』は裏になってしまうのか?と。もっと言えば、監督や声優に較べれば数少なくはあるけど、脚本家に意識が行く人ってのはいますよね。数少なくはあるけれど、絵描きに意識が行く人よりはずっと多い。
何故、多くの客はアニメの作り手に意識が向かないのか。とりわけ絵描きに対する意識があまりにも低いのは何故なのか。それがどうにも歯痒いんです。

音楽の例えを借りれば…練習指揮者を云々するってのは、それはディープだろうと思うんです。そこまでを云々出来る人ってのはそれは一握りでしょう。アニメに対する一般的なスタンスに対して僕が問題を感じてるのは「練習指揮者が誰なのかを知らない」という事じゃなくて、「誰が歌ってんだかも知らない」し「何処の合唱団だかも知らない」に等しい事についてなんです。アニメにおける『絵描き』『スタジオ』ってのはそういったポジションの筈なので。
で。知らないのが駄目な事だとは思ってないんです。全員が全員、知らないってのは何事なんだ?って事なんです。

何か、いつの間にか絵描き限定みたいな感じで話が進んじゃいましたけど、アニメの作り手に対する意識の稀薄さって、僕は問題があると思ってます。誰が作ったのか?は極めて重要な事だろうと思うんです。『作品』てのはつまるところ『人』だと思うんですよ。シェークスピアの劇をプロの劇団員が演るのと小学生が発表会で披露するのとでは違いますし、「また逢う日まで」を尾崎紀世彦が歌うのと斉藤清六が歌うのとでは違うわけで。
だから例えば「ルパン三世」というアニメに関して、誰が作った「ルパン」であるかについて無頓着でいるってのは、それはそれで構わないんですけど、だから損しちゃう部分てのが大きいだろうと思うんです。『誰』を知らなくたって出来不出来を分ける事は可能ですが、そこから先が無いんじゃないか、と。例えばTVSP新作を「じゃあ誰が作ればいいんだ?」と言った時に、知らないんだったら挙げようが無いわけで…もっとこう「誰がいい」とか「彼がいい」とか侃々諤々あって然るべきなんじゃないか、と思うんですね。肝腎のファンの声が漠然と「面白いもの作ってください」では打開されない局面てのがあって、で、そうした事は他のジャンルに較べれば、アニメにあまりにも顕著だなぁってのが憂鬱の種なんです。
2007/04/08 11:45【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 音楽とアニメを比べるのは実は難しくて、音楽の場合の「作った人」というのは
 作曲家・作詞家・編曲家なんですが、アニメの場合の「作った人」は音楽の場合の
 演奏者まで含まれるワケですよね。なので話がちょっとややこしくなりますね。

 池本さんのいう「知らない」のレベルが今ひとつ把握できないんですが、例えば
 具体的に誰の原画が良い、とかいうことまでは言えなくても、
 「テレコムに作らせろ!」くらいのことを言える人は結構多いのではないでしょうか?
 私があまりたくさんのルパンファンと交わってないので、そう思うだけなのかな。

 例えば旧ルがある程度(私くらい)好きな人なら「大塚康生」の名前くらいは
 知っている人が多いと思うし、新ルをある程度熱心に(私くらい)見ていれば
 「北原健雄」の名前くらいは知ってるんじゃないかと思うんですが。
 それはシリーズ通して「作画監督」ってクレジットがデカデカと単独で出てますので、
 目が行きやすいですよね。スタジオの名前だって、割に知られてる様に思うんですが…
 スタジオって、「東京ムービー」とか「Aプロダクション」とか「テレコム」とか
 そういうコトですよね??

 青木悠三や友永和秀の名前も目にする機会はあるけど、どのシーンを誰が書いたかは
 結局視聴者には普通判らないので、当然目がいきにくくなるんじゃないでしょうか。

 それに対して歌を歌ってる人、本を書いた人は具体的に判りますから、
 目が向きやすいのは自然なことだと思います。

 いい例として、私の場合は原画の人の名前には殆ど目がいきませんでしたけど、
 背景が綺麗だと「コレいつもと違う」と思って名前をみていたので、
 山本二三とか小林七郎とかの名前は把握していました。
 「このひとが描いたんだー」と思えるからです、きっと。

 声優には目がいって絵描きには行かないのは、声優は今誰が喋ってるかすぐ判るけど
 絵描きに関しては、まさに自分が今見てるこの絵を誰が描いてるかワカランから
 という要素が大きいと思います。脚本家も、全部そのひとが書いてると思うから
 目がいきやすいのでは。

 例えば脚本というシステムが、ここからここまではAという人が書いて、
 ここからここまではBが書いて、具体的にどこを誰が書いたか視聴者にはウヤムヤ
 という風だったら、やっぱりあまり目は向けられないのではないかと思います。

 制作スタジオを合唱団に例えれば、原画のひとはパートリーダーに当たるのでは
 ないかな、と思うんですが、合唱団は知っててもパートリーダーの名前なんて
 殆ど問題にならない…という状況に近い…のか? まあこれは流して下さい。

 具体的に人名が挙がりにくいのは、やっぱりアニメ作りが集団作業だからだと思います。
 ある意味、しょうがないことなんじゃないのかなあ…

 アニメーションでは(特にルパンは)ひとつの作品をいろんなスタジオや技術者が作ってるけど
 それに関わりなくその「作品」に付いているファンがいる…という特殊な状況ですよね。
 作り手にこだわるならば、その作り手が作る作品を選んで楽しめばいいのに、
 アニメでは「作品」そのものに執着してしまうので、おかしなコトになってるのでは。
 見てる側が「この作品を誰々に作らせろ」と言ったりする様な分野も珍しいんじゃないでしょうか。
 ましてやそれが客に求められるってどうなのよ、とも思います。

 それがしたいひとは、「人」について知識がなければ出来ない、というのは勿論判ります。
 だからまあ、制作の権利を持ってる人に具体的に要望を出したいのなら、作り手を把握する
 必要があるのは勿論そうなのでしょう。でもその行為って他の分野では当然のことでしょうか?

 他の世界で考えれば、自分がいいと思ったものを選択して楽しむだけの話ですよね。
 自分はこの曲が好きだから、この曲の演奏はどこどこのオケにさせろ、というのではなくて
 (勿論「ここのオケで聴いてみたい」という願望はあるでしょうが)
 そのオケのその演奏が好きだったらそれを楽しむ、というだけの話。

 アニメでは、ひとつの作品を色んな団体が好きに作れるわけではないので
 同列にするのは無理があるでしょうが、もともと特殊な分野なのではないかと思います。
2007/04/08 19:38【 こんきち

アニメにおける描き手ってのはつまり演者ですから、音楽で言えば歌い手だし、映画で言えば役者という事になるんだろうと思うんですが…だから音楽であれば○○という歌手の人気があったり無かったり、映画であれば役者の人気云々があるわけですが、アニメの場合は無い(に等しい)ですよね。

確かに原画マンなどは複数名列記なので、具体的に誰が何処を担当したのかを受け手が知る事は困難です。困難ではあるけれど、こんきちさんが美術担当の名前を認識したように、意識さえあれば『全く無知』の状態では終わらないと思うんです。美術監督は単独ですから確かに限定し易くはあるんですが、それもこれも意識が向かなければ認識される筈も無いわけで、重要なのは『意識』って部分だろうと思うんです。原画マンなどはそれでも確かにディープな部分ではあるんですが、じゃあ演出はどうなんだ?とか、これは映画で言えば監督ですから、その辺に無頓着な人『ばっかり』というのは歪つではないか、と。全員が全員、その辺に意識的であれとは言いませんが、映画の監督に較べればアニメの監督なんて、宮崎駿などの一部の例外を除けば殆ど言及されないですよね。

作監やスタジオについても同様で、知ってる知らないで言えば知ってはいるんでしょうが、例えば新作を誰にやらせればいいんだ?って時に「大塚康生にやらせろ」とか「テレコムにやらせろ」とかなっちゃうでしょう。こういうのって「無責任男」を新しくやりますよって時に「植木等にやらせろ」と言ってるようなもんで、それはかなり異常な話であって、普通なら「ユースケ・サンタマリアにやらせろ」とか、そういった事になるだろうと思うんです。

映画の場合、「別にスタッフなんて知らないよ」という受け手もいるし、一方では監督なり役者なりのスタッフから見る見方というのもあるわけですが、翻ってアニメの場合はそういった事が殆ど皆無ってのが不味い状況だと思うんです。

で。こうした事は客がやる事じゃない、という事ですが、客がやらなきゃやる人なんていないと思うんですね。何も直接要望を製作側に出せとか、そこまでの事ってのは現実的じゃないんですが、もっとこう人気なり何なり、受け手の中での取捨選択だとか評価だとかいったものの表出があって然るべきだと思うんです。○○という映画監督が人気だったり、○○という歌手が人気だったりといったレベルでの。アニメの場合はせいぜい声優が云々されるだけなのが、あまりにもあんまりだろうと思うんですよ。
例えばジブリだとか宮崎駿だとかが人気で、だからジブリ新作が大きくクローズアップされる、といったような事が、もっともっとあった方がいいんじゃないか?と。同じく総合芸術・複数スタッフであるところの映画だったら○○監督がいいとか○○って役者がいいとかってのは当たり前にあるわけで。

全員が全員、制作者の全てを把握しろ、ってんじゃないんです。全員が全員、制作者に無頓着である事、意識が向いているにしても極端に一部にしか向いていない状況は不味い、という話で。意識が向いている人間が皆無だとは言いませんけど、それがあまりにも少数すぎて、だから碌な結果になってないんだ、って風に僕は考えてるんです。
2007/04/08 20:46【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 アニメの演出とか原画とかって、受け手側からすれば一体具体的になにやってるんだろう?
 ということが、そもそも映画や小説、音楽の場合よりも格段に判りにくいと思います。
 そこに既にハードルがあるのでは?

 それと日本のアニメの場合、漫画原作のあるものが殆どですから、まず作品そのものに
 目が行きやすいんじゃないでしょうかね? まず作品の人気が先にあるので
 描き手のファンが出来にくいんじゃないでしょうか。

 「○○を誰々に作らせろ!」という発想も、まず作品があって、それを作るなら誰か?
 という思考回路から出てくるものですよね。

 だからそれでいいんだとは言いませんし、池本さんの感じる危機感も判るのですが
 理由を求めるならそんな所じゃないかなあ、と思います。…どうでしょう?
 各スタジオがオリジナルをもっと生み出して、発信側も「○○の作品」と前面に
 掲げる様になれば、スタジオのファンは今よりも出来やすい状況になるんじゃないでしょうか。
 いまの状況で客だけ変われといっても、それは難しい様に思います。
2007/04/09 02:56【 こんきち
アニメのスタッフは客の立場からは判然としない部分が大きいので、映画などに較べれば意識され辛い。作品や企画にしか興味が向いていないから作り手は意識されていない。…という、こんきちさんの分析は多分正解だと思います。

で。原因はどうであれ、そうやって作り手に意識が向いていない状況ってのは、客が損をしている状況なわけですが、そこで、客が変わらなきゃ何も変わらないと思うんですよ。何でそうまで受動的な立場に固執するのか?と。「別に暇潰しに過ぎないからどうだっていいんです」という客であれば何がどうなろうと構わないんでしょうが、そうでないんであれば、多少は意識の高い客になるしかないだろう、と。

送り手ってのは別に『誰が』ってのは重要じゃないんですよ。当たりゃあいいんですから。だからヒットした企画の柳の下でゴソゴソしたり、ヒットした漫画を原作に使ったりして…客が意識してないんだから『誰が』なんかどうだっていい、となっちゃう。
送り手周辺ってのは受け手の反応を受ける形でしか動かないですから…例えば映画ジャーナリズムが監督なり役者なりを採り上げるのは、彼等に『人気があるから』採り上げるわけで、アニメジャーナリズムが仮に青木悠三がどうしたとか友永和秀がどうだとか言っても『客にその気が全然無ければ』黙殺されるだけで商売にならないんですよ。映画でも音楽でも何でもそうですが、まず客が成熟したから送り手がそれに乗っかり、送り手がアピールするから客が更に成熟するという循環ってのは、客が望まない限り始まらないと思うんです。
「ルパン」がいい例で、「ルパン」という『作品・企画』にしか送り手も受け手も目が向いてないから、新作スタッフがボンクラ揃いになっちゃうんだってのが暗黒時代の元凶なんだと思います。
2007/04/09 04:57【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 客は別に受動的な立場に「固執」しているのではなくて、
 なかなか踏み込みにくい状況があるために、普通にしてれば
 受動的立場に居ることになる、というだけなのではないでしょうか。

 他の分野では「暇つぶし」よりちょっと進んだ立場にいる位の人でも
 容易に作り手に目が向くけど、アニメの場合はもっと進まないと目が向かない。
 だから目を向ける人が少ない、ってコトでは。

 確かに、その状況のためにお客は損をしているかもしれませんが、
 他の分野で客が作り手を基準に価値判断してる場合でも
 別に損得の勘定があって、つまり音楽なら音楽界の向上に貢献しようと言う
 意志を持ってやってるわけではないですよね。自然にそうなってるだけで。

 だからいくら「低級な客が多いから良くならないんだ」と嘆いてみても
 (その嘆きは理解できますけど)
 「もっと作り手を意識してみろ」と啓蒙するのは難しいと思います。
2007/04/09 09:10【 こんきち
他ジャンルの場合に、暇潰しよりちょっと進んだ立場の人が容易に更に先に進めるというのはつまり『循環』が完成されてるからという事になると思うんです。まず客が成熟した、という事に始まる『循環』…先達が道を切り拓いてるから、後から来た人は楽に先に進めちゃうんだ、と。で、その先達による開拓ってのは自発的に始めたと言うか、気がついたら道になってた、って事だろうと思うんです。
だからアニメについて言えば、うんざりするような未開拓地が広がっていて、誰も手をつけようとしてない状況なんだと思います。ごく僅かな人間が雑草を刈ったりしてますけど、そんなんじゃ全然追っ付かない。アニメを取り巻く状況ってのは、だからこの先、何も変わらないだろうと思います。悪化はしても改善はされない。

損得ってのは第三者的立場に立っての話であって、誰も損だの得だの考えながら趣味を楽しんでるわけじゃないんですが、だけど端から見れば「あんたらは損してるんだけどな」って事なんです。言われたって「だから何?」って事なんでしょうけど。
自然にそうなっちゃってるのが問題なんだと思うんです。他ジャンルの場合は損得とかそういった事で無しに『自然に』上手い『循環』が完成された。そのジャンルの未来がどうだとかは関係無く、自分で勝手に成熟したから『循環』が始まったんです。で、それは客観的に見ると得してる、と。だけどアニメに関してはそうなってなくて、成熟する人間が一定数をいつまでも越えないから『循環』は完成されないんですね。

で。僕は啓蒙しようとかそういった事は考えてないんです。はっきり言えば絶望していますから。単なる愚痴なんです。
誰かが「成熟しろ」と焚き付けたり、あれやこれやお膳立てして「さあどうぞ、成熟してください」とか、そんな事で変わるもんじゃないと思うんですよ。自発的に自然発生的に始まらない以上、変わりようはないだろうと考えてます。
2007/04/09 13:59【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 なるほど、愚痴でしたか (^_^;
 そういうことなら、「そうですねー」と素直に相づちを打っちゃいましょう。
 確かに市場の成熟は客側からの自発的成熟から出発しないと難しいのでしょう。
 自然にそうなっちゃってるのが問題なんでしょうけれど、だからって誰かが
 成熟を促しても、客側がそれに動かされるわけではない、というのも合意点ですね。

 でも池本さんは絶望していると言ってるけど、「何故?」と問いかけたり
 しているのを見ると、そんな風に見えないんですけどね (笑)
 どうも世間に発破を掛けようとしているように見えてしまいます。
 誰かがそう言い続けていることには、意味があるかもしれませんよね。
2007/04/09 22:10【 こんきち
何か長々と引っ張っちゃって御免なさい。挙句に結局は愚痴だし。
何でこんな話を始めちゃったんだろう…。

「何故こうなんだろう」というのは僕の癖なんです。
本当のところは『疑問を感じてる』んじゃなくて
「何故そうなんだ!コノヤロー!」って事なんですよ。
「判らない」って言う時は呆れちゃってたり投げちゃってたり
絶望してたりする時なんです。イライラしている、と言うのか。
面倒臭い喋り方ですね。重ね重ね御免なさい。
2007/04/09 23:44【 池本 剛 】
≡★ 池本さん ★≡

 「なんで?!」といって怒りや苛立ちを表すのはよくあることですよね。
 それに対して私がクソ真面目に返していく言葉が、きっと
 池本さんには分かり切ったことばっかりで余計苛々したことでしょう (笑)

 私は面白かったですし、池本さんにも自分の思ってることを
 文章にする良い機会になってればいいなと思います。
 今後も是非どうぞドンドン面倒くさくご登場下さい。m(__)m
2007/04/10 04:13【 こんきち
こちらこそm(__)m
2007/04/10 10:13【 池本 剛 】

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