うた考・追記
2006/07/19 (水)
12日の記事に寄せて頂いたコメントにレスを書いた後、なんだかスッキリしなかったので、自分の考えていることを自分でしっかり把握するために、以下追記です。
「歌詞はどうでもいい」というのは全く全然どうでもいいワケじゃなくて、「こういう雰囲気で歌いたい」という気持ちに影響は与えていると思うし、歌詞を自然に、語るように歌ったほうが、聴いていても歌っていても気持ちがいい、というのは勿論私にもあります。というよりも、歌詞がぞんざいに扱われている歌は、やはり聴いていて居心地が悪いです。具体的な情景をイメージしながら歌っているような場面も、歌によっては確かにあります。
頂いたコメントを読んで、共感する部分が圧倒的に多いはずなのに なんだかなげやりな感じの反応をしてしまったのは(スミマセン、悪意はないのですが)、恐らく
言葉1つ1つ、単語1つ1つに、どうやって作曲家がメロディをつけたかを
自分で解釈していくこと、なぜこの言葉にこういうメロディがついたのか、と
自分で考えることで、そのメロディを自分のものにしていく
という辺りの言葉で、昔感じた「手に負えない感」とその時の苦〜い思いを思い出したからだと思います。合唱団で歌っているとき、「メロディーの意味」「作曲者の意図」みたいなことを考えて議論している人達が周りにたくさんいて、自分もそういうことを考えることを要求されるんだけど、私の嗜好がそういう方向に向かなくて、それが苦痛になった…
勿論彼等は純粋にそれを楽しんでいて、私が勝手に「苦く」感じていただけなんだけど、そういうことが出来る人達を尊敬しつつも、自分が魅力的に感じないことを無理に楽しむことはできないので、そういう世界から離れてしまった、という感じです。そういうことを言葉で考えたり議論したりすることに魅力を感じない、むしろできれば避けて通りたい…のだと思います。
私が歌う時、誰かに向けてなにかメッセージを伝えたい、という気持ちは全く無いようです。音楽をするヒト、音楽が好きなヒトってみんな、そういう気持ちがあるものなのか…それがなければ、本当はやっている意味がないのかなあ? ただ好きな音を追求して、それを提示しようと試みて、提示したものを一緒に楽しんでくれるひとが居れば、私にとっては幸せなーだと思います。
更に追記。
2005/08/11 の記事で、ルパンのテレスペ感想を吐いた時、こんなコトを書きました。
このとき後日書こう、と思っていたことは、今日書いたようなコトです。多分。勿論「音楽とはそういうものだ」と言いたいのではなくて、「そういうスタンスもアリでは」くらいの感じです。
「歌詞はどうでもいい」というのは全く全然どうでもいいワケじゃなくて、「こういう雰囲気で歌いたい」という気持ちに影響は与えていると思うし、歌詞を自然に、語るように歌ったほうが、聴いていても歌っていても気持ちがいい、というのは勿論私にもあります。というよりも、歌詞がぞんざいに扱われている歌は、やはり聴いていて居心地が悪いです。具体的な情景をイメージしながら歌っているような場面も、歌によっては確かにあります。
頂いたコメントを読んで、共感する部分が圧倒的に多いはずなのに なんだかなげやりな感じの反応をしてしまったのは(スミマセン、悪意はないのですが)、恐らく
言葉1つ1つ、単語1つ1つに、どうやって作曲家がメロディをつけたかを
自分で解釈していくこと、なぜこの言葉にこういうメロディがついたのか、と
自分で考えることで、そのメロディを自分のものにしていく
という辺りの言葉で、昔感じた「手に負えない感」とその時の苦〜い思いを思い出したからだと思います。合唱団で歌っているとき、「メロディーの意味」「作曲者の意図」みたいなことを考えて議論している人達が周りにたくさんいて、自分もそういうことを考えることを要求されるんだけど、私の嗜好がそういう方向に向かなくて、それが苦痛になった…
勿論彼等は純粋にそれを楽しんでいて、私が勝手に「苦く」感じていただけなんだけど、そういうことが出来る人達を尊敬しつつも、自分が魅力的に感じないことを無理に楽しむことはできないので、そういう世界から離れてしまった、という感じです。そういうことを言葉で考えたり議論したりすることに魅力を感じない、むしろできれば避けて通りたい…のだと思います。
私が歌う時、誰かに向けてなにかメッセージを伝えたい、という気持ちは全く無いようです。音楽をするヒト、音楽が好きなヒトってみんな、そういう気持ちがあるものなのか…それがなければ、本当はやっている意味がないのかなあ? ただ好きな音を追求して、それを提示しようと試みて、提示したものを一緒に楽しんでくれるひとが居れば、私にとっては幸せなーだと思います。
更に追記。
2005/08/11 の記事で、ルパンのテレスペ感想を吐いた時、こんなコトを書きました。
ちょっと前に、「爆笑問題のススメ」という深夜番組にゲストで出ていた京極夏彦という作家が言ってたんですが、「作者が言いたいこととか、ストーリーすらもどうでも良くて、大事なのはテクニック、見せ方だ」と。ちょっとナルホドな〜と思ってしまいました。…(中略)… それにしてもこれって音楽にも通じることかも…? これについてはまた後日書こうかと思います。
このとき後日書こう、と思っていたことは、今日書いたようなコトです。多分。勿論「音楽とはそういうものだ」と言いたいのではなくて、「そういうスタンスもアリでは」くらいの感じです。
私も、歌詞の世界観に対して、イマジネーションを広げて、自分
なりに得たものを表現しようとする、というのなら比較的理解は
するのですが、「メロディーの意味」「作曲者の意図」とか
云われると、正直、私の理解の範疇を超えるのでどうしようも
ありません。
京極夏彦さんは、私も大好きな作家さんですが、なるほど、
その観点も、また解り易いですね。
以前、三善晃先生のコーラスセミナーみたいなのに参加したことがありますが、三善先生は「この詩にはこの音しかつかない」という確信をもっておられました。それくらいの曲が作れる人がうらやましいです。
きっと私のは「自分の理解の範疇を超えるもの対する拒絶反応」ってコトだろうと思っていて
それも情けない話だなあとは思うのですが、無理に追求はしたくない、というのが本音です。
私と音の現場を共にしてくれる人達が、その音を一緒に楽しんでくれれば、それで充分幸せです♪
≡★ すぎさん ★≡
日本語ポップスなんかは特に、音を先に作ってしまって、歌詞は後からテキトーに
割り振りました、という感じのが多いように思いますが、最近の合唱曲もそうなのでしょうか。
勿論程度の差はあるのでしょうが…いわば「芸術作品」と「娯楽作品」との差ですから
作品への「意味」の込め方が違ってきますもんね。
作者に意図があるのは勿論そうなのでしょうし、
「コレしかない!」と確信できるのは素晴らしい事だと思います。
でも歌ったり聴いたりしていて自然に伝わってこない「意図」を一生懸命考えるのって
なんだか気が進まないのですよね。
考えなくても自然に伝わってきたモノに感動すればいいんじゃないのかなあ…
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おはなしは移ってるのかもしれませんが、あまり長くならないように注意しつつ。。。
私は引用されている部分を「お客を意識した演奏、といわれるけれど、いったいそれはどういうことなのか、どんな状態か?・・」といったようなことをこんきちさんが話題にしている、と感じて書き始めたのだったような気がします^^
ある曲で、非常に難しいメリスマの曲があってね。
ある言葉の1つの母音だけが引き伸ばされて、ものすごい装飾がついてたりするんですよ。たとえばなんだろ、たとえば「Happy」ということばの、最初の「ha-」でずっとながーくのばして、技巧的な装飾が歌われたりするんですが、そういうのが私はスゴク嫌いだったんです。ただその技術が難しくて、喉が絞まって苦しいし、いやんなっちゃうなーと思って、全然意味がわからなかったというの?なんでそんなふうにのばさなくちゃならないのよ、って。でもその先生に、なぜ「happy」にそんな音が作られたんだろう?っていうことを質問されて、かなり驚きました。そんなふうに考えようとしたことなかったから。
それではじめて考え、感じ取ろうとしたときに、その難しい音の連続が「happy」のそのハッピー度合い(風合い?)を私に伝えてくれたんですね。なーるほど、そんなふうにはっぴーなのね、と、作曲したひとにしたら全然誤解なのかもしれないけれど(笑)私の中では合点がいきました。名曲といわれるような種類のものだからかもしれません。
話はここからです^^
すると、その詩の中でのhappyの感覚が自分の中で納得いったあとに、喉が絞まらずに歌えるようになった瞬間が訪れました。もちろんそれまでにもっと多くの技術的なアドバイスもありましたが。
その体感の気持ちのいいことったらなくて、とたんに、だいっきらいだったメリスマが好きになったんです。なるほどー。こうやって味わうのね。という感じ。
その体験があってからのことです。
たとえばアカペラで、伴奏でただ全音符をのばしてハーモニーを進行させているときにも、私の中でものすごく意味が深くなったんです。リアルな心情が湧いて、その曲のメッセージで胸がいっぱいになることがありました。あぁ、たまたまその曲がわかれの曲で。
そんな体験があってから、私のなかでは「お客を意識する」ということ、いや「演奏する」ということなのかもしれませんし、うたうことの意味かもしれませんが、それはその自分の感じたものを空中に呈示し、お客さんといっしょに見つめる時間をつくる人になることだと思うようになったんです。
誰かにお話を語る人に似ている感じです。
どううたえばいいかわかんない。っていうこと、私は人より多いかもしれません。ただうたっても、なんか上手く歌えてないからかも。なんか上手く歌えないときに、ここは大きく、ここは小さく、ここはもっと音程が高くて、ここはもっと、、という感じで教えられたときは、全然うまくいかなかったんだけれど、その音形や言葉をどう味わえばいいか、ということを手にしたとたんに、身体が自由になったんですよね。そしたら、とたんに身体から声が湧いてきて。
でも、私は唯一のことを話そうとしているのではなく、誰かに言って聞かせようというのも毛頭なくて、そんなこんながあってね、私は人の前に立ち歌うということをさぐっているものの一人して、話したかったんだと思います。
そんなことを感じるようになってきたと同時に、全部のグループが終わりになっちゃったからね。自分を奮起させているのかもしれませんね^^
またしても、なんだかちょっと、意味がわからないかもしれません。
音のことを言葉にしようとしているからかなぁ。
すみません。
でも私は決して、頭でっかちで歌ってはいません。
むしろ逆なんだと自分では思ってますが^^;
いや、それは自分の誤解かもしれませんが^^;
そうなんです、かんじなこと。
そういう発見と体験?体感?みたいのがあって
そのごしばらくして、身体が開いて声が通って、
そのあと臨んだ演奏、1月に1度、2月に2度、4月に1度あったんですが、
お客さまから多くの良い手ごたえのメッセージをもらえたんです。
ありがたいことです。
そうそう、だからそれが私にとって、
お客さまに何か伝わったゾ!
という手ごたえであり、
「聴き手を意識すること」がうまくいった出来事ではないか、
と、思ったわけでした。
心のこもったご説明、ありがとうございました! 実体験を伴った具体的なお話というのは、やはりグッとくるものですね。「happy」という言葉を例にとってのお話は、なるほどなーーとスンナリ納得の行くものでした。
今回感じたことは、きっとひとつのコトに対して人は同じようなことを感じていたとしても、それを言葉にする…特にちょっと抽象的な言葉にするときに、それぞれの言葉に対する感性とかバックグラウンドとかが大きく介入してきて、同じ感覚でほかの人に伝わらないことがあるんだろうな、ということでした。私の察知能力が低いというのも大きいかもしれません (^^ゞ
「なぜこの言葉にこういうメロディがついたのか」と聞いて私が想像したものと、今回のともべさんのお話から私が感じたことにはズレがあったように思います。「なぜ」といっても言葉で説明するようなことではなくて、やはり感覚的なものなんですね。言葉にしようとすると結果が違ってくるかも知れないけど、ともべさんが感じていることは、私も感じていることなのかもしれないな、と。
人の言葉を勝手に解釈して、勝手に齟齬を感じてしまったりすることって、今までもあったんだろうなあと、勿体なく感じました。昔合唱団で感じていたことも、ひょっとするとそうだったのかもしれないですね。周りの人達が話していることは、どうやら私以外の人達には通じているようで、自分ひとりだけなんのこっちゃ…という状態が多かったので、それで勝手に「私には無理なんだ」と考えた所があったのかも。他人が感覚的なことを表現した言葉は、理解できなくてもそれは自分のキャパを必ずしも超えたものとは限らず、たまたまそのひとの表現の仕方が自分にあっていなかっただけかもしれなくて、理解できないと思ったなら無理に判ろうとする必要はないのかも…というか「判らないとダメなんだ」と思わないで、判る時がくるまで(あるいはタマタマ判る言葉で説明される時まで)保留しておけばよいのかも、と思いました。
> 私は唯一のことを話そうとしているのではなく、誰かに言って聞かせようというのも毛頭なくて
世間では人前で演奏することの意味を「伝えたいものがあるから」という言い方をよくしますが、その言葉を聞いて私が想像するのが、「言って聞かせよう」というイメージに近いのかもしれません。それで反発というか、違う気がするのかも。私の「好きな音を再現して一緒に楽しんで貰う」というのと、ともべさんの「自分の感じたものを空中に呈示し、お客さんといっしょに見つめる時間をつくる」ということに、大きな違いはないのかもしれませんね。ただ、私の場合はあんまり歌詞そのものに重きをおいてないワケで、それは私自身があまり歌詞そのものに感銘を受けないタイプだったり、あるいは歌詞とメロディーの関わり具合の大きい作品に触れていなかったりすることが原因かもしれません。あるいはただ未成熟なだけなのかも。
「歌詞そのものに重きを置かない」というのがまた、なんだかうまく説明できないんですが…歌詞にすごく感情をこめたりするのがあんまり好みではなくて、音色や雰囲気や歌い口に言葉がちゃんと乗っていれば、その言葉自体が聞き手にシックリくるものであったときに、自然に聞き手に受け入れられるモノのように感じています。といってもソモソモ私自身が歌を聴く時にあまり歌詞をちゃんと聴いていないので、あまり語るべきコトでもないのかもしれませんが (^^ゞ でも隅々まで歌詞を聴いていなくても、ウタイクチとかには感動するんですよね。だから言葉がナイガシロにされることを良しとしているワケではないんです。なんかヘンだな。
さて、ここまでは「表現する」ということについての話ですが、そもそものギモンであった「お客を意識した演奏」ということについては、私の中ではまだちゃんと整理されていません。「その曲を表現しようとすること」は、客前でなくてもしようとしているように思います。むしろ場合によっては、客前でない方が曲を表現することに集中できる場合もあったりして…? お客さんからのフィードバックがあるとないでは演奏する時の心理状態も大きく違うのは確かですが、それは結果的に得られる効果であって、「意識して演奏する」ということとは違うことのように思います。もし「お客さんの反応を感じながら演奏する」ということが「お客を意識した演奏」ということなのだとしたら、意識しないで演奏なんて出来るんだろうか、とまたギモンだったりします。
ともべさんが前にコメントしてくださったのは「そのうたをメッセージしたいあて先です。具体的な○○さんに、もしくはそのうたのストーリーの中で語られている頭の中の登場人物に」ということで、その感覚は「なるほどー」と思うのですが、前者のありかたは自分には難しい、と思いました。後者のほうは、「お客を意識する」ということにどう繋がるのかがイマイチ想像しにくい感じでした。「お客を意識した演奏」という言葉を実際に使っているひとそれぞれが、違うことを思い浮かべている可能性も大きいですね。よく耳にする言葉なんですが、世間的にこの言葉は、どういう意味で使われているんだろう…
なんだか結局まとまっていないでしょうか。スミマセン。
あ、おもしろいと思うのは、私ぐらいでしょうか…
でも、とっても面白いです*^^*
これからずーっと考えていけること、その時々によって、こうかも〜とかああかも〜とか思いながら、楽しんでいけるような気がします。
またライブ、楽しみにしていますね☆
音楽の楽しみかたって、ホント人それぞれですねー。
全然違う感じ方をするひとの話を聞くと、不思議だったり
戸惑ったりもしますが、それが又面白いのかもしれないですね〜。
仰るとおり、自分のなかでも感じ方は変わってきますしね。
私もともべさんの歌を聴きたいです。
そういう機会が近い将来ありますように!